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アイデンティティの話 [考え方]

まずは、特に前振りもなくレポートを貼っておきましょう。
東京大学 教育学部で開講していた 社会教育論Ⅱ 担当は牧野先生だった気がします。間違ってたらごめんなさい。とにかく良い話をしてくれた先生だったことは覚えてます。

2014 教育学部 
社会教育論Ⅱ 期末レポート

テーマ:日本社会の構造的変容がもたらした「人格」「自我」の様相について述べ、その個人にとっての意味を論じなさい。

1.日本社会の構造的変容について
 日本社会の構造的変容は経済状況の変化によって訪れた。朝鮮戦争による特需景気から始まる高度経済成長を通して、拡大再生産・市場の拡大を繰り返し続けてきた日本だが、1973年にはオイルショックを迎え、きつい働き方で何とか経済成長率を維持する「安定成長期」になり、1980年頃から経済状況が変化を見せ始めた。これまで拡大し続けてきた市場が飽和し始め、均質画一平等という形で大量消費を促す形式は通用しなくなってきた。この背景としては少子高齢化がある。つまり、子供が減って新しい家庭が生まれなくなってくる一方で、すでにものを持ってしまっている高齢者が増えたことが影響している。家電などの市場はこうした人口変化を受けて、「一家に一台」という従来の販売戦略を「一人に一台」という形に転換し、市場の細分化=パーソナル化を図った。市場のセグメント化により、市場に商品を供給する産業においても、「重圧長大」から「軽薄短小」という変化が起き、少品種大量生産から多品種少量生産へと転換した。

2.社会の変化に伴う「人格」「自我」の様相
 前述したような変化をうけ、社会において個性がしきりに叫ばれるようになる。学校においてしきりに個性が強調されるようになり、のちのゆとり教育に繋がるが、これは学校の本来の目的に対する挑戦であった。本来、学校は近代社会において作られたパノプティコンの1つとしての機関であり、子供たちに社会における規範を内面化させる役目があった。つまり学校は社会における規範を子供たちに植え付けて「画一化」させるところであったはずなのに、そこに「個性という多様性」への変更が求められたのである。
 学校や社会のいろんな場で「私らしい私になりなさい」ということが言われ、それまでは内面化された規範によって「みんなと同じ私」という形で確立されていたアイデンティティは、「みんなと違うこと」によって確立されるものに変わった。こうしたアイデンティティのあり方の変化は、社会における価値のあり方にも表れていた。それまでは時間をかけて成長したものに価値が見出されるのが主であったが、「みんなと違うこと」=差異に価値が見出されるようになり、価値はより即時性を帯びることとなった。さらに人格が価値と結びつけられ、キャラとしていじられるようになった。
 人格や個性における意味や価値は基本的に自己責任で見出すものであり、それは子供であっても例外なく適用された。1980年ごろからは「私さがし」に見られるような、「意味にすがる」という現象が多く見られるようになった。その際、内面化される規範が希薄になっていったので、外面化された規範に従いつつ、自分の意味や価値=差異を他者との関係性の中で見出すことになった。その結果、『横目で他者を見つつ、全員が「そこそこ」になる』社会が生まれ、個性を求めようとした結果、個性が見つけにくい社会が出来上がるという逆説的な状況となった。
また、差異を見出す=自分に意味づけをするという行為は、基本的に言葉によって行われる。この言葉というものは、①他者からの借り物であり、②にもかかわらず実際に言ってみないと意味が確定しない、というものであり、この2つの性質を持つ言葉で構成される意味は、差異によって生み出され、後からしか分からず、交換も可能で確定もしないという不安定なものにしかならない。結果として際限のない自己への意味づけが繰り返されることになった。
 本来の近代社会、つまり高度経済成長期は、こうした言葉による自己への意味づけが必要なかった。人々は勤労という価値観によって自己が時間と空間を占めている感覚を持ち得ていた。現在、そうした身体性を保証していた勤労という価値観は否定されてきている。雇用形態・ビジネスモデルが多様化する中で、時給システム=労働者の労働力に価値を見出すシステムに基づいて金銭を手に入れることなく、「価値を提供する人こそ金銭を手に入れる」という考えを持つ人も現れ、不労所得という用語が人々の夢として語られるようにもなってきている。こういった労働のあり方が変わったことも自己の曖昧化、そしてそれによる自己の意味づけに対する欲求に影響している。
 自己にとらわれ、それを意味づける言葉に囚われることは、言葉の物神化に繋がった。言葉が身体に優越し、身体の暗黙知などは軽視される中で、人々は他者からの言葉に容易に影響を受けるようになった。一方で自分も他者に一方的に言葉を浴びせ続けるようになり、返答のない「自己語り」をするようになった。

3.個人にとっての、「人格」や「自我」の意味
 2.では社会の変化に伴って「人格」や「自我」が他者との関係性の中で、後から言葉によって生み出されるようになったこと、そうして言葉が優位な社会になることで「自己語り」をするようになったことを、その他の話を合わせて記した。では、そうした「人格」や「自我」といったアイデンティティのあり方、自己を語るようになったことは個人にとってどのような意味になるのか、そしてどうすればそうした苦しい状況に救いのようなものを見出せるか、思うところを自分の人生体験を元に記していく。
 私が「自分とは一体なんなのか」と問うようになったのは中学2年の時である。当時は卓球部に所属していたが、外部からOBのコーチを呼び、3年生が夏初めに引退してから、関東大会出場を目指して平日は厳しい練習、休日は遠征して他校との練習試合を繰り返した。試合に勝てなかった私はコーチやチームメイトから日々存在を否定するような言葉を投げかけられ、ノイローゼになり、自殺未遂までした。最後に自殺未遂を図って失敗したとき、そこですべてが吹っ切れて結局引退まで部活を続けることになったのだが、それ以来、私は日々起きたいろいろな出来事を記憶し、あるいは記録し、それが自分にとってどのような意味だったのか、自分はそれでどう変わったのか自問自答を繰り返すようになった。他者にその経験自体を話すこともあったが、それはごく少数しかなく、基本的には毎日、自分一人で自分の過去を何度も再構成して再解釈している。他者に対しては、そうして再解釈してできた自分の考えのみを、直接話したり、あるいはその考えに則って発言をすることで間接的に語ったりしていることが圧倒的に多い。
 私が常日頃やっていることは、自己の経験、それも今の自己を形作る上で重要な影響を与えている特別な経験であり、自己そのものとも言える経験に対する、言葉による意味づけに他ならないと思われる。頭の中での言葉、人との会話の中での言葉、あるいは携帯で打ち込む文字など、それは様々な手段を取りつつも所詮は言葉による意味づけであり、前述したとおり、それは常に交換可能で確定せず、記憶を解釈するたびに与えられる意味も変わってきた。そうして作られた「私」は時間とともに変容する極めて不安定なものだという見方は確かにできるが、私の中では「変化は進化」という考えがあったおかげで、そういったあり方を肯定的に受け取ることができていた。変化する自分も含めてそれは1つの自分だという見方があった。
 私の体験がどこまで一般的なものかは分からないが、自らの体験を拡張して考えるなら、アイデンティティが身体性や内面化された規範など、画一化という文脈の中で与えられるものから、他者の関係性の中で言葉によって与えられるものに変わった現在では、個人にとってアイデンティティは「変わり続けるもの」として存在するようになったではないかと私は考える。
しかもそれは、私のように、時間と、言葉の不確定性によって再解釈を繰り返すことで変わるだけではないはずだ。私の場合はひたすら「独り言」のような形で、つまり、「自分の過去の体験 対 それぞれの時間軸の私」の関係でアイデンティティを作り出していた。これは今言ったような社会的文脈とは対照的な私個人の独自性を表す部分だと思われる。全体的には、アイデンティテイは「他者との関係性」の中で言葉によって生み出されるのであり、この「他者」によってもアイデンティティは変わっていくと私は考える。他者との関係性で生み出されるようになったアイデンティティは、関係を作る他者が変われば変わる。私たちは基本的に、常にいくつものコミュニティに同時に所属しているから、メンバーがそれぞれ異なるコミュニティの構成によって常にいくつものアイデンティティを持っているし、そのいくつものアイデンティティも、各コミュニティで人の出入りがあれば少しずつ影響を受け、変わっていく。現代における「人格」や「自我」といったアイデンティティと呼べるものの、個人にとっての意味は、それが「他者」と「言葉」によって常に並行して変わり続けるものになったということだと私は考える。
 また、アイデンティティに対して、「それが言葉によって与えられるものであるが故に、作り上げた瞬間常に自分のものでなくなってしまう」という矛盾は、そうして言葉で作り上げられた「完成品」がアイデンティティだという発想を前提にしている。だが私がここで提案したいのは、問いかけたいのは、「アイデンティティを何度も言葉で作り上げていくその過程」そのものをアイデンティティとして見ることはできないのかということだ。私の場合は、自分の体験・選択、そしてその瞬間に思ったことすべてを復習し、再解釈していくことはすでに習慣となり、それをすること自体が私を作り上げてきたと感じられる。つまりアイデンティティを模索することを自己目的化してそこに積極的な意義を見出せないかどうかということだ。かけてきた時間だけでなく、「自分とは何か」という意味を見つけ出すために自分が経てきたそのプロセスは、主観的なものであり、他者のそれとは質的に決定的に異なるものになると私は考える。だからそのプロセス自体をアイデンティティとすれば、それは常に「他者」と「言葉」によって変わり続け、しかも時間的に積み重なっていきながら代わりのない自分固有のアイデンティティを手にすることができるのではないかと思う。言葉が優位になり、常に自分のあり方を問い続けなければならない状況を変えることは難しいと思われる。つまり「私とは何なのか」という問い自体は常に自らに付きまとってしまうものだと私は考える。しかし、それがこの発想のもとでは、「他者に自我が埋没してしまう恐怖を表した問い」ではなく「他者との差異は自覚した上で発される、単純に今の自分を見つけ出すための探索的かつ好奇心に基づくような問い」にならないだろうか。「私とは何なのか」を考えているその瞬間に、もう自分のアイデンティティは作られていると言ってしまえば、話はすごく簡単なように私は感じている。
 自己語りをしてしまう、せざるを得ないといった状況に対しても、同じ方向からのアプローチを考える。つまり、自分が語った経験、あるいは他者から語られた経験と他者の言葉によって受けた影響をプロセスとしてすべて自分のアイデンティティとして取り込んで行くことはできないかということだ。「あの日、あの人に言われたことが私の今の~な性格を作り出しているのだ。」というような気づきや解釈は、往々にしてその後で「いや、やっぱり違うかな」と再び自分に解釈を求める。そうしたらそこでまたじっくりと考え、ひとまず「今日の答え」を出す。その「今日の答え」を作って積み重ねていくプロセス自体がもうアイデンティティになっているという視点を持つことができれば、今の自分を見失うことなく「今ここで」の生き方で毎日を一歩ずつ確実に進んで行けると私は考えている。もちろん、こういったスタンスは問題もあるだろう。「今ここで」の解釈しか与えないこのやり方はまさにその場しのぎといった感じであり、将来の自分に対する見通しは全く立たなくて不安を覚えるかもしれない。だが「今この瞬間」さえ自己への意味づけに苦しんでいるよりかはずっとましだと思うし、最初の話に戻るようだが、市場が縮小し続け希望が見えない下り坂の社会を思うくらいなら「今この瞬間」を全力で楽しみ続ける刹那主義的なあり方のほうが幸せでないかと、この先社会を担うものとしては好ましくないかもしれないが、そう思ってもいる。                         


終わり。さりげなく軽くない僕の昔話も入ってますが。
「アイデンティティが無い」なんて歌の歌詞にも出てくるし、僕もよく「俺って何なんだ」ってなってるし毎日のように自分の無価値観を感じてますよ。東大に受かったところで結局自分は無力だし、たくさんのことができないままです。でもまぁ、そんな自分をどんな形であれ振り返り続けていたら、振り返った時の解釈やらひょっとすると行為自体がアイデンティティと化してしまっあていた。こうして自分の中の妄想ともいえるような思考に浸ることが何よりも僕の独自性を裏付けてしまった。みたいな話です。世界で全く同じ文章が書けるやつは一人もいないでしょう。この文章も著作権あるんじゃないですかね。そう考えたら、自己評価はさておき「ああ俺は確かに自分なんだ」という点は余裕でクリアできてる。そっから先がダメなのが僕ですが、それ以前で自分を喪失してしまうことはあるときから一度もないことだけは評価に値すると思ってます。まあでも、みんななんだかんだすごいから「自分って何なんだろ」なんて悩みは抱えたことないか。とも勘ぐってます。知らないからその辺はブラックボックス。

就活では「自己分析しよう!」とか言いますが、僕に言わせれば「そんなんいつもやってるわ」とも返せるし「んなもんしたって無駄だわ」とも返せます。心の中ではそう返してます。どれだけしたって確定はしない無限のプロセスをある一定時点でイベントのようにやったって、分析結果はソースとしては頼りないものでしかないでしょ。ってね。2つの発言はどちらも僕という1つの立場からの主張ですが。

はあ、今日はここまで。ブログを書いて金を稼いでる人はすごいよね。
ネットビジネスに興味はあるしよく調べてますが僕が最後の最後で行動に移さないのは、その働き方に対してどこか満たされない要素を持っているからだと今日改めて思わされてしまいましたよ。表面的な理由は大体めんどくさいですが本当に死にそうだったらそれは言い訳にはならないし、やろうと思えば実行に移せる行動さえやらないのはもっと根の深い価値観が邪魔をしているからですね完全に。廃人したいし時間も無限に欲しいくせに、僕は自分に適性が最もある仕事でしかも何らかの形で微妙な身体性と高い収益を両立させたいみたいです。傲慢ですね~死ねばいいのに俺(笑)

ここまでとか言ったのにおまけ長すぎた。おしまい。次も気が向いたとき。己の生きざまを残すため
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