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自分にとっての「書く」という行為について [考え方]


平日夜の更新は珍しいです。でもまぁ寝る前にゲームしてても何も生まれないので何か書いた方がまだましかなーと思い立ちパソコンを開きました。

かといって、こうしてブログを書いていることは、僕にとって生産的な行為とは多分言えないというのが今日のメインの主張です。先に結論ですが(笑)

最近はTwitterで色んなブロガーの記事を目にします。yahooニュースなんかもよく読みます。
読んでいる中で有名な方を挙げると、イケダハヤトさん、タクスズキさん、akkyさん、教育社会学者の内田良先生、あとは最近はご無沙汰ですが東京大学で人材育成とかマネジメントとか(表現が難しいです)をやってる中原准先生とかですね。あとは彼らのRTで回ってくるキングコング西野さんのブログをたまに。タイトル見て気を引いた奴は読むという感じで、通勤時間に読みます。

彼らはアフィリ記事を書いたりブログ記事を書いたりしてますが、彼らにとっては記事は商品と呼べるものであったり、あるいは資産に近いものなんだと思います。そして書くことはそれらを生み出す生産的な行為です。書いて作り出した記事は必要に応じて追記されたりリライトだったり削除されたりしますが、基本的にはデータとして存在し続け、サーバーが吹っ飛んだりウィルスに侵されない限りは恐らく永続的に利益創出に貢献してくれます。読者にとって役に立つものを書くことで、読む側にとっても生産的な時間を生んでいるし、記事に価値が生まれているとも言えると思います。

一方で僕がここに書いていることは、まず第一に読む価値がほとんど皆無です(笑)
書いている僕自身、ほとんど読み返さないです。内容としていつも僕が書いている「日常・人生の振り返り」とか「近況報告」とかは内容的にも、あるいはそのザックリまとめすぎた書き方という観点でも記事としての価値が高くないと「自負」しています。(その「自負」が間違っていたら面白いですが(笑))
僕自身、読者という対象をほとんど意識していない書き方をしています。こうして語尾が丁寧語であること以外は、自分の書きたいことを・書きたいタイミングで・フォントも何もSEOも一切気にせず・タグ付けさえも気まぐれに・書いてます。
何でだろうと思ったんですが、僕にとっての「書く」(=考えたことを文章にする)って、暇潰しでしかないんですよ(笑)
時間を消費するための1つの手段としてそれを選んでるにすぎないという立場を取っているのが僕です。

こうして書いているこの記事さえ、22:00~から寝ようと思えるまでの微妙な時間を、PS4を触るよりは有意義と個人的には思えるやり方として利用しているに過ぎません。考えたことがこうして情報として残るという効果は、あくまで二次的なものであって、そもそも今日の簿記の勉強をもう少し長くやっていたらこの記事は間違いなく存在しません。10分弱の帰り道で思ったことを、「そうだ暇だから暇潰しにブログにでも書きつけてやるか」といった具合です。

大学時代にはレポートや卒業論文をまあそこそこ書きましたが、レポートはどうだったんだろうと思いを馳せてみました。でもレポートが、ブロガーの皆さんのやっているような生産的行為だったかというとやはりこれも違うと思いました。まあ今の自分のスタンスとも違いますが。

レポートは、それまで自分が考えてきたことを練り上げて、文章という形にするという意味では、多少創造的ではあったものの、やっぱり作ったら終わりでした。書いた僕が内容を忘れていてもほとんど読み返しません。学期が終わってしまうと、読み返して手に入る情報がもう役に立たないのですw

僕はそこで自分の考えを言うなれば「消費」して、対価として単位を得ていたんだと思います。そして、単純に自分の頭の中をさらけ出していたという点では、今書いているこうした僕のブログも、レポートも、卒業論文さえも同じです。ブログは数分の考え・レポートは数週間の思考・卒論は約1年の思索だったという時間の違いがそこに存在するだけです。

レポートのおかげで単位を得ているという意味では、レポートは会計学で言う資産性(間違ってたらすみませんw)のようなものを得ている気がしますが、1回で終わりだからちょっと違うかなって思います。もしも、毎年使いまわされるレポートの元ネタを自分が書けば、それはこの文脈で言うところの「資産」として近い存在になるかなと思います。

と、ここまでの文章は、書き進める中で少し前の文章に加筆修正を加えたり、軽い形式段落に分けたりして作っています。それは半分読者に対しての読みやすさを意識してるかもしれないし、でもやっぱり半分は自分の考察を整理・深化させるためにやってます。どこまでも自己満足が付きまというのが僕にとっての「書く」という行為です。頑張っても読者への志向性が10%入ればいい方です。
有名ブロガーの皆さんはその志向性が自分よりはるかに高いんだろう、というのが現状の勝手な解釈になります。

その志向性ってどこから湧いてくるんですかね?大量の記事を作る創造性と、タイトル付け・SEO対策・ライティングスキルとあらゆる箇所で読者を意識して利益創出に結びつける生産性はエネルギーみたいなものだと勝手に思っているんですが、どうやって湧いてくるんでしょうか?
愛?リア充度の高さ?お人好しな性格?社会に貢献したいという熱い思い?

まあそういったマインドみたいなものだとすると、僕にはそういうのがありません。熱意・社会への希望・知識共有の喜び・向上心(・彼女・ルックス・身長・・・)どれもありませんね(笑)

マインドセットはとても重要だというのはネットビジネスについて色々調べてた時に、胡散臭い集団からも、本物の人からも両方から言われました。真実だと思います。胡散臭い団体に数万円払って、確かに頑張れば稼げる商材や団体だと分かっても、僕自身が勝手にやめちゃってチャンスを逃すなんてことをすでに何度かやっている僕にとって、マインドというのは永遠に解決されず立ちはだかる最初にして最強の壁です。ひとえに僕が自分の人生諦めちゃってるからですねw

「絶対に~してやる!」みたいなものの強いバージョンを無くしてしまってから早数年、という感じです。東大合格が最後、といってもいいかもしれません。

弱いものであれば、卒論を書き上げるとか、統計検定に受かるとか、そういうものに対して「意志力」とか「grit」みたいなものを多少は発揮していると思いますが、勉強関係のものばっかりだし、自分のプライベートに関してはすっかりそういうものを捨ててしまっていますね。捨てることを積極的に選び、リスクとコストとリターンをすべて徹底的に低く抑えてきました(笑)

熱いマインドをどうしても取り戻したい、とまでは思っていませんが(それは贅沢というものだと思って諦めてます)、ブログだったりアフィリエイトというものを収入の選択肢にしておくのはリスクヘッジの観点からすれば魅力的で、可能なら身につけたいと思う中で、そのためにマインドの問題を何とかしないといけないのならどう向き合わないといけないのかということは、不定期ではあるものの時折自分の脳内に去来するクイズです。意識高めに言えば、issueなのです。

まあこんなに長い記事を書いちゃってここまで読む人がいるかわからないですが、まあ締めとしては、今の自分にとっての「書く」という行為はマジでしょうもないものだけど、もう少しましなものになったりするか、収益が得られるようなものになったらいいよねって話でした。

バズってるブロガーの皆さんは本当にすごいと思います。炎上するようなこと言ってたり、「えっ以外に資産運用うまくいってなくねw」って思って自分でそういうtweetしちゃってても、やっぱり心の奥底では、そういう多くの人に読まれる記事を書くことができ、そしてそこに至るまでの努力を積み重ねてきた彼らに尊敬の念を持たざるを得ないです。対極にいる人達ですからね。自分が嫌いな僕にとっては畏敬の対称なわけです。僕がブログの元ネタを考える時間は数分です。タイピングしながら次を考えてはいますが、タイトルもSEOもまるで考えてない上にめんどくさがって知識すらも身につけようとしません。あと書いている記事の質も、投稿した記事の数も全然違うし。たとえ好きなトピックで書いていいよと言われても、無理です。無理とか言っちゃってるから無理なんでしょうけど(笑)

とまぁ適当に賞賛と嫉妬を混ぜた逃げ口上を書いて今日はおしまい。大体1時間半かけてます。スピードも追いつかないですねww それではーノシ
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アイデンティティの話 [考え方]

まずは、特に前振りもなくレポートを貼っておきましょう。
東京大学 教育学部で開講していた 社会教育論Ⅱ 担当は牧野先生だった気がします。間違ってたらごめんなさい。とにかく良い話をしてくれた先生だったことは覚えてます。

2014 教育学部 
社会教育論Ⅱ 期末レポート

テーマ:日本社会の構造的変容がもたらした「人格」「自我」の様相について述べ、その個人にとっての意味を論じなさい。

1.日本社会の構造的変容について
 日本社会の構造的変容は経済状況の変化によって訪れた。朝鮮戦争による特需景気から始まる高度経済成長を通して、拡大再生産・市場の拡大を繰り返し続けてきた日本だが、1973年にはオイルショックを迎え、きつい働き方で何とか経済成長率を維持する「安定成長期」になり、1980年頃から経済状況が変化を見せ始めた。これまで拡大し続けてきた市場が飽和し始め、均質画一平等という形で大量消費を促す形式は通用しなくなってきた。この背景としては少子高齢化がある。つまり、子供が減って新しい家庭が生まれなくなってくる一方で、すでにものを持ってしまっている高齢者が増えたことが影響している。家電などの市場はこうした人口変化を受けて、「一家に一台」という従来の販売戦略を「一人に一台」という形に転換し、市場の細分化=パーソナル化を図った。市場のセグメント化により、市場に商品を供給する産業においても、「重圧長大」から「軽薄短小」という変化が起き、少品種大量生産から多品種少量生産へと転換した。

2.社会の変化に伴う「人格」「自我」の様相
 前述したような変化をうけ、社会において個性がしきりに叫ばれるようになる。学校においてしきりに個性が強調されるようになり、のちのゆとり教育に繋がるが、これは学校の本来の目的に対する挑戦であった。本来、学校は近代社会において作られたパノプティコンの1つとしての機関であり、子供たちに社会における規範を内面化させる役目があった。つまり学校は社会における規範を子供たちに植え付けて「画一化」させるところであったはずなのに、そこに「個性という多様性」への変更が求められたのである。
 学校や社会のいろんな場で「私らしい私になりなさい」ということが言われ、それまでは内面化された規範によって「みんなと同じ私」という形で確立されていたアイデンティティは、「みんなと違うこと」によって確立されるものに変わった。こうしたアイデンティティのあり方の変化は、社会における価値のあり方にも表れていた。それまでは時間をかけて成長したものに価値が見出されるのが主であったが、「みんなと違うこと」=差異に価値が見出されるようになり、価値はより即時性を帯びることとなった。さらに人格が価値と結びつけられ、キャラとしていじられるようになった。
 人格や個性における意味や価値は基本的に自己責任で見出すものであり、それは子供であっても例外なく適用された。1980年ごろからは「私さがし」に見られるような、「意味にすがる」という現象が多く見られるようになった。その際、内面化される規範が希薄になっていったので、外面化された規範に従いつつ、自分の意味や価値=差異を他者との関係性の中で見出すことになった。その結果、『横目で他者を見つつ、全員が「そこそこ」になる』社会が生まれ、個性を求めようとした結果、個性が見つけにくい社会が出来上がるという逆説的な状況となった。
また、差異を見出す=自分に意味づけをするという行為は、基本的に言葉によって行われる。この言葉というものは、①他者からの借り物であり、②にもかかわらず実際に言ってみないと意味が確定しない、というものであり、この2つの性質を持つ言葉で構成される意味は、差異によって生み出され、後からしか分からず、交換も可能で確定もしないという不安定なものにしかならない。結果として際限のない自己への意味づけが繰り返されることになった。
 本来の近代社会、つまり高度経済成長期は、こうした言葉による自己への意味づけが必要なかった。人々は勤労という価値観によって自己が時間と空間を占めている感覚を持ち得ていた。現在、そうした身体性を保証していた勤労という価値観は否定されてきている。雇用形態・ビジネスモデルが多様化する中で、時給システム=労働者の労働力に価値を見出すシステムに基づいて金銭を手に入れることなく、「価値を提供する人こそ金銭を手に入れる」という考えを持つ人も現れ、不労所得という用語が人々の夢として語られるようにもなってきている。こういった労働のあり方が変わったことも自己の曖昧化、そしてそれによる自己の意味づけに対する欲求に影響している。
 自己にとらわれ、それを意味づける言葉に囚われることは、言葉の物神化に繋がった。言葉が身体に優越し、身体の暗黙知などは軽視される中で、人々は他者からの言葉に容易に影響を受けるようになった。一方で自分も他者に一方的に言葉を浴びせ続けるようになり、返答のない「自己語り」をするようになった。

3.個人にとっての、「人格」や「自我」の意味
 2.では社会の変化に伴って「人格」や「自我」が他者との関係性の中で、後から言葉によって生み出されるようになったこと、そうして言葉が優位な社会になることで「自己語り」をするようになったことを、その他の話を合わせて記した。では、そうした「人格」や「自我」といったアイデンティティのあり方、自己を語るようになったことは個人にとってどのような意味になるのか、そしてどうすればそうした苦しい状況に救いのようなものを見出せるか、思うところを自分の人生体験を元に記していく。
 私が「自分とは一体なんなのか」と問うようになったのは中学2年の時である。当時は卓球部に所属していたが、外部からOBのコーチを呼び、3年生が夏初めに引退してから、関東大会出場を目指して平日は厳しい練習、休日は遠征して他校との練習試合を繰り返した。試合に勝てなかった私はコーチやチームメイトから日々存在を否定するような言葉を投げかけられ、ノイローゼになり、自殺未遂までした。最後に自殺未遂を図って失敗したとき、そこですべてが吹っ切れて結局引退まで部活を続けることになったのだが、それ以来、私は日々起きたいろいろな出来事を記憶し、あるいは記録し、それが自分にとってどのような意味だったのか、自分はそれでどう変わったのか自問自答を繰り返すようになった。他者にその経験自体を話すこともあったが、それはごく少数しかなく、基本的には毎日、自分一人で自分の過去を何度も再構成して再解釈している。他者に対しては、そうして再解釈してできた自分の考えのみを、直接話したり、あるいはその考えに則って発言をすることで間接的に語ったりしていることが圧倒的に多い。
 私が常日頃やっていることは、自己の経験、それも今の自己を形作る上で重要な影響を与えている特別な経験であり、自己そのものとも言える経験に対する、言葉による意味づけに他ならないと思われる。頭の中での言葉、人との会話の中での言葉、あるいは携帯で打ち込む文字など、それは様々な手段を取りつつも所詮は言葉による意味づけであり、前述したとおり、それは常に交換可能で確定せず、記憶を解釈するたびに与えられる意味も変わってきた。そうして作られた「私」は時間とともに変容する極めて不安定なものだという見方は確かにできるが、私の中では「変化は進化」という考えがあったおかげで、そういったあり方を肯定的に受け取ることができていた。変化する自分も含めてそれは1つの自分だという見方があった。
 私の体験がどこまで一般的なものかは分からないが、自らの体験を拡張して考えるなら、アイデンティティが身体性や内面化された規範など、画一化という文脈の中で与えられるものから、他者の関係性の中で言葉によって与えられるものに変わった現在では、個人にとってアイデンティティは「変わり続けるもの」として存在するようになったではないかと私は考える。
しかもそれは、私のように、時間と、言葉の不確定性によって再解釈を繰り返すことで変わるだけではないはずだ。私の場合はひたすら「独り言」のような形で、つまり、「自分の過去の体験 対 それぞれの時間軸の私」の関係でアイデンティティを作り出していた。これは今言ったような社会的文脈とは対照的な私個人の独自性を表す部分だと思われる。全体的には、アイデンティテイは「他者との関係性」の中で言葉によって生み出されるのであり、この「他者」によってもアイデンティティは変わっていくと私は考える。他者との関係性で生み出されるようになったアイデンティティは、関係を作る他者が変われば変わる。私たちは基本的に、常にいくつものコミュニティに同時に所属しているから、メンバーがそれぞれ異なるコミュニティの構成によって常にいくつものアイデンティティを持っているし、そのいくつものアイデンティティも、各コミュニティで人の出入りがあれば少しずつ影響を受け、変わっていく。現代における「人格」や「自我」といったアイデンティティと呼べるものの、個人にとっての意味は、それが「他者」と「言葉」によって常に並行して変わり続けるものになったということだと私は考える。
 また、アイデンティティに対して、「それが言葉によって与えられるものであるが故に、作り上げた瞬間常に自分のものでなくなってしまう」という矛盾は、そうして言葉で作り上げられた「完成品」がアイデンティティだという発想を前提にしている。だが私がここで提案したいのは、問いかけたいのは、「アイデンティティを何度も言葉で作り上げていくその過程」そのものをアイデンティティとして見ることはできないのかということだ。私の場合は、自分の体験・選択、そしてその瞬間に思ったことすべてを復習し、再解釈していくことはすでに習慣となり、それをすること自体が私を作り上げてきたと感じられる。つまりアイデンティティを模索することを自己目的化してそこに積極的な意義を見出せないかどうかということだ。かけてきた時間だけでなく、「自分とは何か」という意味を見つけ出すために自分が経てきたそのプロセスは、主観的なものであり、他者のそれとは質的に決定的に異なるものになると私は考える。だからそのプロセス自体をアイデンティティとすれば、それは常に「他者」と「言葉」によって変わり続け、しかも時間的に積み重なっていきながら代わりのない自分固有のアイデンティティを手にすることができるのではないかと思う。言葉が優位になり、常に自分のあり方を問い続けなければならない状況を変えることは難しいと思われる。つまり「私とは何なのか」という問い自体は常に自らに付きまとってしまうものだと私は考える。しかし、それがこの発想のもとでは、「他者に自我が埋没してしまう恐怖を表した問い」ではなく「他者との差異は自覚した上で発される、単純に今の自分を見つけ出すための探索的かつ好奇心に基づくような問い」にならないだろうか。「私とは何なのか」を考えているその瞬間に、もう自分のアイデンティティは作られていると言ってしまえば、話はすごく簡単なように私は感じている。
 自己語りをしてしまう、せざるを得ないといった状況に対しても、同じ方向からのアプローチを考える。つまり、自分が語った経験、あるいは他者から語られた経験と他者の言葉によって受けた影響をプロセスとしてすべて自分のアイデンティティとして取り込んで行くことはできないかということだ。「あの日、あの人に言われたことが私の今の~な性格を作り出しているのだ。」というような気づきや解釈は、往々にしてその後で「いや、やっぱり違うかな」と再び自分に解釈を求める。そうしたらそこでまたじっくりと考え、ひとまず「今日の答え」を出す。その「今日の答え」を作って積み重ねていくプロセス自体がもうアイデンティティになっているという視点を持つことができれば、今の自分を見失うことなく「今ここで」の生き方で毎日を一歩ずつ確実に進んで行けると私は考えている。もちろん、こういったスタンスは問題もあるだろう。「今ここで」の解釈しか与えないこのやり方はまさにその場しのぎといった感じであり、将来の自分に対する見通しは全く立たなくて不安を覚えるかもしれない。だが「今この瞬間」さえ自己への意味づけに苦しんでいるよりかはずっとましだと思うし、最初の話に戻るようだが、市場が縮小し続け希望が見えない下り坂の社会を思うくらいなら「今この瞬間」を全力で楽しみ続ける刹那主義的なあり方のほうが幸せでないかと、この先社会を担うものとしては好ましくないかもしれないが、そう思ってもいる。                         


終わり。さりげなく軽くない僕の昔話も入ってますが。
「アイデンティティが無い」なんて歌の歌詞にも出てくるし、僕もよく「俺って何なんだ」ってなってるし毎日のように自分の無価値観を感じてますよ。東大に受かったところで結局自分は無力だし、たくさんのことができないままです。でもまぁ、そんな自分をどんな形であれ振り返り続けていたら、振り返った時の解釈やらひょっとすると行為自体がアイデンティティと化してしまっあていた。こうして自分の中の妄想ともいえるような思考に浸ることが何よりも僕の独自性を裏付けてしまった。みたいな話です。世界で全く同じ文章が書けるやつは一人もいないでしょう。この文章も著作権あるんじゃないですかね。そう考えたら、自己評価はさておき「ああ俺は確かに自分なんだ」という点は余裕でクリアできてる。そっから先がダメなのが僕ですが、それ以前で自分を喪失してしまうことはあるときから一度もないことだけは評価に値すると思ってます。まあでも、みんななんだかんだすごいから「自分って何なんだろ」なんて悩みは抱えたことないか。とも勘ぐってます。知らないからその辺はブラックボックス。

就活では「自己分析しよう!」とか言いますが、僕に言わせれば「そんなんいつもやってるわ」とも返せるし「んなもんしたって無駄だわ」とも返せます。心の中ではそう返してます。どれだけしたって確定はしない無限のプロセスをある一定時点でイベントのようにやったって、分析結果はソースとしては頼りないものでしかないでしょ。ってね。2つの発言はどちらも僕という1つの立場からの主張ですが。

はあ、今日はここまで。ブログを書いて金を稼いでる人はすごいよね。
ネットビジネスに興味はあるしよく調べてますが僕が最後の最後で行動に移さないのは、その働き方に対してどこか満たされない要素を持っているからだと今日改めて思わされてしまいましたよ。表面的な理由は大体めんどくさいですが本当に死にそうだったらそれは言い訳にはならないし、やろうと思えば実行に移せる行動さえやらないのはもっと根の深い価値観が邪魔をしているからですね完全に。廃人したいし時間も無限に欲しいくせに、僕は自分に適性が最もある仕事でしかも何らかの形で微妙な身体性と高い収益を両立させたいみたいです。傲慢ですね~死ねばいいのに俺(笑)

ここまでとか言ったのにおまけ長すぎた。おしまい。次も気が向いたとき。己の生きざまを残すため
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家庭教師をしていて思ったこと [考え方]


こんばんは、少し日が空いての更新。
今日は家庭教師をしていて思ったことがあるのでメモしておきます。


家庭教師は1件だけですが、11月から持っています。
担当しているのは高校生で、彼は前回のテストで赤点が3つも出て進級がピンチという状況で僕がやってきました。

僕に課せられたのは当然のごとく、次回の定期テストで危なげない点数を取り留年を回避することです。


 定期テストと定期テストの間は1ヶ月~2ヶ月程度、その間に学力をきちんとつけるにはある程度日常的に学習を積む必要がありますが、生徒の彼(Y君としておきましょう)は、僕とY君の母親との間では共有されている危機感が共有されていません。お母様の再三の言葉は虚しく響いているようです。
 テストは3月の頭です。僕の方は結果が残念であればクビになるでしょう。
それがビジネスとしては当然です。ただ、いくら僕がいい指導をしても、最終的にはY君が必要な量の自習をしてくれないと実力は全く付かないし、ほかの科目でコケてしまってもお話になりません。それは僕もすでに先方には共有済みです。一種のセルフハンディキャップというやつです。

 家庭教師の僕がテスト前に教えに行くのはあと1回です。たった90分の指導でどこまでできるのかは疑問ですが、考えの整理のためと、今回失敗したとしても今後また同じようなケースがあった時のため、そして世の中にいるかもしれない同じ悩みを持つ人のために、僕が考えたことを記しておきます。

 家庭教師としてやってきた僕に求められていることは「1ヶ月~2ヶ月という短期的な時間スパンでの成績向上」ですが、勉強の習慣をつけるには通常はもう少し時間をかけなければなりません。 毎日というか日頃から勉強する習慣それ自体はまだしも、自分にあった力になる勉強のやり方を確実にものにするには半年~1年はかかっていいと思います。小学生~中学生の間はそんなこと考えないでもできたりしちゃいますし、半年~1年なら小学生~中学の間になんとかなるだろ!という意見はここでは「そうではないと思う」という意見だけ述べておきます。その年代の間に「自ら考え勉強の方略を試行錯誤する」というのはあまり一般的ではないと思います。

 とにかく僕はY君に自習をしてもらうよう働きかける必要があります。どうすればいいでしょうか?駆け込みの生徒に対して多くの塾がそうする可能性があるし、Y君のお母様が現実にとっているアプローチは「危機感を植え付ける」です。お尻に火をつけて勉強を強制的にさせようというものですね。ですが先程も述べたとおり、これは功を奏していません。
 コミュニケーションでのアプローチが難しい場合は、擬似的に「失敗したらお前はこうなるんだぞ」的な恐怖体験をさせ、より強烈に危機感を植え付ける方法が出てくるかもしれません。例えばY君のお母様は成績が悪いことで学校に呼び出されたことを「屈辱」と言っていました。このあたりが追体験で共有できればY君の危機感を呼び起こせるかもしれませんが、どうやらそういったチャンスは次の定期テストまでにはないようですし、次の定期テストでの失敗はおそらく「死」を意味します。この方法は実現不可能なようですね。また、本人のメンタルがそこまで強くもないようです。過度にストレスをかけるとかえって学習のモチベーションが低下する恐れがあると、Y君と接しているうちに気づきました。

 そうすると、「危機感を植え付ける」というアプローチはどうやら方向性的にうまくいかないようだ、という結論が出てきます。ではどうするか。
 僕に考えられるアプローチは勉強に対して危機感のようなネガティブな印象ではなく、何らかのポジティブな印象を持たせる、もしくは僕のようにネガティブでもポジティブでもないどちらかというとニュートラルな印象を持たせるというものです。
 ベネッセだろうがなんだろうが、多くの学習機関、また教師や予備校講師は「勉強は楽しいものだ!」ということをしきりに謳います。確かに知的好奇心を満たすことは快いですし、勉強を楽しむことは勉強の成果を高めることにつながります。これに関しては学術的なエビデンスもあるんじゃないかと思います。ですが、彼らの多くが謳っていることの多くは「勉強自体の自己目的化」を促しているような印象を僕は受けています。「勉強自体を楽しませる」アプローチは勉強の本来の目的である知識や考え方の修得を本来の目的から二次的な目的に転落させ、代わりに勉強させること自体を第一義的な目的においているように感じるのです。その場の結果的にそれはうまくいっているのかもしれませんが、それだと「勉強のスキルや効率のいいやり方」には何も重きが置かれなくなってしまう(現にそうかもしれません)可能性がある上に、どうしても勉強が楽しめない子供にとっては苦行以外の何でもなくなってしまうアプローチです。そしてそのような子供は多いことでしょう。世の中にはもっと楽しいことがあります。スポーツやサッカー、ゲームにアニメ、旅行に恋愛。上げたらキリがないですね。(笑)
 以上の点で、僕は「勉強を楽しませる、好きにさせる」といったアプローチに対しては異を唱える立場にあります。そもそも僕も勉強なんか好きじゃないです。東大生だって勉強はめんどくさいですし、やらなくていいならやりたくなんてありませんよ、ゲームしたいしデートもしたい(笑)

 では僕は勉強に対してどのようなスタンスをとって向き合い、東大に受かるために3年間勉強をし、大学に入ってからも燃え尽きることなく勉強をし続け、プライベートでも勉強をしているのか。
 先程一言触れていますが僕はどちらかというと勉強に対してはニュートラルな、ともするとドライな捉え方をしています。個人的な言い方を知ると「勉強は仕事=ビジネス」です。
 仕事は辛くても楽しくても、やらなければなりません。それはtaskであり、ある一定の目的のために必要なものです。勉強の目的はざっくり言えば「知識やスキルを習得し、社会でやっていける力を手に入れること」だと思っています。自分磨きですね。こうした目的があるからこそ目的をスマートに(つまり少ない仕事量)で達成するために効率のいい勉強のやり方を調べたり考えたり実践したりすることが可能になると思います。ビジネスとして成功させるために、会議もします。実績の振り返りもします、スケジュールを立てるときにゴールから逆算して行くところも何一つ変わりません。働いている方は特に馴染んでるんじゃないかなと思いますが、締切が何時なのかというところから、各作業の締切を細かく決め、最終的にその日の仕事、翌日の仕事のノルマを決めていくと思いますが、勉強も同じように決めていけます。
 勉強自体が目的ではなく、自分の能力向上など他の何かが目的であること、これがモチベーションが低い僕が勉強を続けてきた理由です。最も、心理学的には、内的動機付けが高い状態(=勉強自体が自己目的化している状態)で外的な動機付け(例えば金銭報酬等です)を与えると内的動機付けが低下するとかいうのもあった気がします。僕には常に勉強よりも楽しいゲームという存在があったので、決して勉強自体へのモチベーションは上がりませんでしたが、最初は外的な目的や動機付けを与えておいて、あとでそれを取り払うということが有効な例も大いにあると思います。そこはケースバイケースですが、やはり「効率の追求」という観点は「勉強の自己目的化」からは得られないような気がするので、卒業や進級をしないといけない学生、大学に受からないといけない受験生、テストや試験で点を取りたい人にとってそういうアプローチをとるのはベストな選択肢とは言えない気がします。遊びで勉強している人はどうぞって感じですね。
 「ドライな」僕からすると、ポジティブにしろネガティブにしろ、多くの人は勉強に対して「泥臭い」イメージを持ちすぎているなと思います。それは単に、勉強に対して「ビジネス的な思考=効率を求める思考が不足している」からです。根性論を始めとして古臭い感じの考え方が蔓延ってるように感じます。ぶっちゃけいって全くセンスがない。それはどんな先進的なベンチャー企業のうつ教育関係の企画からも感じるものがありました(企画自体は素晴らしいんですが、中身に対する考察というか配慮というかが甘すぎる。もちろん「一般受け」と「学問的なエビデンス」は必ずしも一致しないから仕方がないところもありそうですが、それはそれでクソだと思いますw)。最新の研究をしているであろう東京大学の中にいてもどこかそんな感じを受けます(笑)

 ここまで長々と書いたところで本題に戻りましょう。これで「ポジティブな」アプローチと「ニュートラルな」アプローチの立場については話し終え、僕が後者の立場であるところまでは大丈夫でしょう。
 僕は4日後の指導の際、そして同じような場面が今後あった時に具体的にどうするか。すでに今までの指導の際にもしていたなと、今になって気づきましたが、陳腐なことに「相手の理性・理解力を促し、信じながら説得をする」んだと思います。状況を説明し、僕が正しいと考える「自分磨き」という目的と、留年回避という近々に迫った目的のために、「納得した上で」とにかく勉強をしてもらうように促します。ただし、最初に行ったような「ただ危機感を植え付けるような」アプローチはしません。あくまで勉強に対しては「ただ必要だからやる」それだけに留めます。結局は本人の問題というところは変わらないし、説得のスキルも高めないといけないし、問題は山積みですが、ビジネスとしての立場は「超一生懸命説得してもダメなやつは、客としては無理」です。僕にもお客様を選ぶ権利があります(笑)。「結果が出ない」という名のクレームはサービスを提供している僕としては、「こちらは上手くいくように先導しているのに、お前がついてこないんだから当たり前じゃんw」と返すところです(もちろん付いてきて貰えるようにサービスの改善を図ることはするでしょうが、限界はあるでしょう。そしてここは限界の話です(笑))そんなお客様を相手に商売は長くは続かないでしょう。遅かれ早かれどちらかが契約の打ち切りを申し出る未来が見えます。逆にその辺りの結果が出ない原因の分析を間違えず(こちらに対する正当な評価をしていただいているということですね)、教育において短期的な結果を求めるのが難しいということをご承知の親御さんなら、長期的な視点から今後も指導をお願いしてくれることは十分に有り得ると思います。そういう懐の深いケースは塾講師として何度も見てきています。

 書きながら思いましたが、おそらく教育業界においては親御さんの教育観も変えていく必要があるでしょう。塾への駆け込みをしてくる人は未だにたくさんいますが、正直言って手遅れ感がすごい(笑)これも教育においてはすぐに結果を出すのは難しいということが染み付いていないということの表れだと思います。これはさすがに最近叩かれまくりの政府でも分かっていて、きちんと法律にも長期的な視点が組み込まれてます(笑)
 今回は指導日にテストが終わる関係で指導の振替を打診しましたが、「テスト前は忙しいので指導はいいです」という理由で拒否されました(笑)むしろテスト前だからこそ行ったほうがいいのでは・・・という気がするのですが・・・結果が出なかったときはその一要因として挙げさせていただくことにしますかwでも、テスト前に指導をすることで本当に有効なのかどうかは、チャンスがあれば検討をしてみたいところです。本当に有効でないのなら引き下がらないといけないですしねー

 そんなわけで長いけど今日の雑感はおしまい。
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